LOGINジューッ、という派手な音を立てて、フライパンの上で卵が焼けていく。
換気扇の低い唸り音に混じって、リビングの方からパタパタという軽い足音が近づいてきた。 「ママ、おはよー……」 あくびを噛み殺しながらキッチンに顔を出したのは、七歳の娘、朝倉 陽菜(あさくら・ひな)だ。寝相の悪さを証明するように、頭の右半分の髪が鳥の巣のように跳ね上がっている。 「おはよう。またすごい寝癖ね」 「だって、夢の中で怪獣と戦ってたんだもん。ママ、今日のお弁当、タコさんウインナー入ってる?」 「もちろん。足はちゃんと八本にしておいたわよ。さ、顔洗っていらっしゃい」 火を止め、お弁当箱の蓋を閉める。 陽菜は「やったー!」と歓声を上げて洗面所へ駆けていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、ふと、日に透ける明るい茶色の髪に目が留まった。 色素の薄い髪。そして、太陽の光の下で見ると微かに緑がかって見える、あの人と同じガラス玉のような瞳。 娘は明るく愛らしい存在であり、私にとってかけがえのない宝物だった。 この子を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。苦しかった七年間の中で、それだけは誰に何を言われても揺らがない、私自身が選んだ答えだった。 あの九月から、七年と十一か月。陽菜は六月二十日に七歳になった。 母娘二人の暮らしに余裕があるわけではない。それでも懸命に生活してきた。朝倉家にも、高遠側にも、陽菜の存在は知らせていない。 七年前。妊娠を知った私は、本当は家族にその事実を伝えるつもりだった。 だが、その直後、彼の一族によるビジネス上の争いによって、自分の家族が追い詰められていることを知る。父の会社は倒産こそ免れたものの、かつての勢いを失い、厳しい状況に置かれていた。 けれど、あの夜については、今も分からないことが残っている。あの異常な状態が偶然ではなかったのなら、誰が、何のためにあんなことをしたのか――七年経った今も、その答えだけは見つからないままだ。 さらに追い打ちをかけるように、私はSNSで彼の婚約発表を目にした。 相手は、御堂ライフサイエンス創業家の令嬢、御堂莉央。両家の提携を紹介する記事には、玲司の腕にそっと手を添えた彼女の写真が載っていた。白いドレスの莉央は晴れやかに笑い、隣の玲司も口元をわずかに緩めている。 私の知らないところで、こんな顔をしていたのだと思った。二人の肩の近さから目が離せず、意味もなく画面を拡大した。 投稿には、本人の言葉として読める短い文章が添えられていた。 『彼女が承諾してくれて、本当に嬉しい』 その一文を見た瞬間、私には、ひとつの答えしか考えられなくなった。 自分を抱いたあの夜には、すでに彼女との婚約の話が進んでいたのだ――少なくとも、その時の私には、そうとしか思えなかった。 スマートフォンの冷たい金属の感触が、手のひらから体温を奪っていく。 自分の存在も、お腹の中の子供の存在も、誰にも告げることなく姿を消すことを決めた。 その日、私は誰にも何も告げず、キャリーケース一つで家を出た。◇
「……朝倉さん、朝倉さんってば!」
「へっ? あ、はい!」 肩をポンと叩かれ、意識が現在へと引き戻される。 私は娘の前ではいつも笑顔を見せ、明るく振る舞っている。しかし、その心の奥には、生活への不安や積み重なった疲れを抱えていた。 ここは都内でも有数の高級ホテル「グランツ」。収入を得るため、複数の仕事を掛け持ちし、現在は客室清掃のスタッフとしても働いている。生活費の足しにするため、夜は匿名でテキスタイルデザインの仕事も請け負っていた。 シーツの皺を伸ばしていると、勤務中、上司である清掃部門のチーフが突然呼び止めにきた。血相を変えて飛び込んでくる。 「今すぐ、最上階のスイート兼会議室に行ってちょうだい! 大切なお客様があなたを待っています!」 「……は?」 頭の中が真っ白になる。 (私、自分が何か問題を起こしてしまったのではないか……クレームになるようなこと、しましたっけ?) 不安になる暇もなく、有無を言わさぬ勢いで背中を押され、エレベーターに乗せられた。 鏡張りの壁に映る自分の姿を見る。地味なグレーの制服。まとめ髪から少しこぼれ落ちた後れ毛。手には予備のダスター。 (どう考えても、最上階に呼ばれる身なりじゃない……ゴミ箱の配置間違えたかな) 胃の辺りがキリキリと痛み出す。 やがて最上階に到着し、指定された部屋の前に立つ。 「……清掃スタッフの朝倉です。お呼びでしょうか」 「入れ」 分厚い扉の向こうから響いた低い声に、心臓が大きく跳ねた。 ゆっくりと扉を押し開ける。 窓際に、長身の男が立っていた。スリーピースのダークスーツ。部屋の空調に乗って微かに漂ってきた匂いが、私の全身を金縛りにした。 甘い葉巻の匂いと、微かなシトラス。 男がゆっくりと振り返る。 アメリカ人の母親譲りの、色素の薄い瞳。七年前よりもさらに凄みを増した、高い鼻梁。 間違いない。そこで待っていた人物は――七年前、私の人生を大きく変えた男だった。彼だ。 視線が重なる。 パニックで呼吸の仕方を忘れた私を、彼はいっそ残酷なほど冷静な瞳で見下ろした。 七年間秘め続けた想い。七年間隠し続けた人生。 そのすべてが、再会した瞬間に交差する。 「……話がある」 七年前の、あの夜。私を暗い小部屋に引きずり込んだ時と同じ言葉。 けれど、七年前とは込められた意味がまったく違っていた。氷のように冷たく、逃げ場のない絶対的な命令だった。七年前、実家の経営権が彼らの手へ渡った時も、私には何も決められなかった。今度は同じようにはしたくない。「布を見るお手伝いも、お断りします。YUさんへの依頼は、仲介の方へお願いします」 自分の名義を他人のように口にすると、舌の奥が強張った。玲司はファイルを閉じずに、私を見ている。「君に頼んでいる」「私は、あなたたちの会社のやり方に巻き込まれたくありません。それに、今の生活で十分です」「十分?」 玲司が低く笑う。その響きには、明らかな侮蔑が混じっていた。「昼はホテルの清掃。ほかの仕事も掛け持ちしているそうだな。それが君の望んだ『十分な生活』か」 痛いところを突かれ、私の顔が熱くなる。 図星だった。デザイナーとしての仕事だけでは、母娘二人の生活を安定させるには足りない。だからこそ、固定シフトで確実な収入が得られる清掃の仕事を辞められないのだ。「あなたには関係ありません!」 私は声を荒らげそうになるのを必死に堪え、きびすを返した。 これ以上、彼と同じ空間にいては、自分が崩れてしまう。 重厚な扉の取っ手に手をかけた瞬間。「……才能だけだ」 背後から、玲司の静かな声が響いた。「さっき布を見た時の目は、昔と同じだった。君の腕を借りたい。……それだけだ」 その言葉に、私の胸が一瞬だけ大きく揺れた。 自分の作るものを、彼がまだ覚えていた。 今さらそんなことを言われても困るのに、布を見ていた彼の目が頭から離れなかった。◇ しかし、私は振り返らなかった。 評価されたからといって、彼の下で働くわけにはいかない。 あの七年前の絶望を、二度と繰り返すわけにはいかないのだ。「……失礼します」 私は短く告げ、扉を開けようとした。 その時。「……子供がいるそうだな」 玲司の低い、だが確信に満ちた声が、私の背中に突き刺さった。 私の手が止まる。 取っ手を握る手が、白くなるほど力を込めていた。 全身の血が凍りつくような感覚。 彼は、知っている。 陽菜の存在を。 まだ父親だと知られたわけじゃない。そう言い聞かせても、胸の奥では別の声がしていた。七年も隠してきた秘密が、たった一日で端から崩れ始めている。 私はゆっくりと振り返る。 玲司の冷徹な瞳が、凍りついた私を捉えて離さなかった。 ――子供がいるそうだな。 スイートルームの重厚
私がひそかに続けてきた夜の仕事。その布が、玲司の目の前に広げられている。 どこまで知られているのだろう。背中に汗が伝った。 YUという名前の下では、私は誰の娘でも、誰かに捨てられた女でもなく、ただ自分の仕事だけで評価されることができた。そこにまで彼を入れたくなかった。 布に見覚えがある。それだけなら、まだ私が本人だと証明できたわけではない。「……人違いです。私はここの清掃スタッフです」 私はファイルから目を離し、どうにか彼を見返した。「仲介業者は、本人の名前を明かさなかった。これは採用候補として受け取った試作品だ」 玲司は、布の端を押さえた。「君が昔描いていたものに似ている。だから、確かめたかった」 言い切った後、彼は私の返事を待った。確信に満ちた顔をしているのに、その指だけが布を離さない。「私からお話しすることはありません」 私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。 なぜ、ここまで執拗に追うのか。七年前に自分を捨てた男が、なぜ今さら。◇ 玲司はデスクから離れ、私の目の前まで歩み寄った。 シトラスの香りと、上質なスーツの生地の匂いが私を包み込む。七年前の夜を嫌でも思い出させるその匂いに、私は思わず息を止めた。「YUには仲介業者を通して正式に依頼する。君にも、布を見てもらいたい。昔の図案は覚えている」 私はファイルから布地を一枚だけ取り上げた。自分が提出した試作なのに、ホテルの強い照明の下で見ると、仲介業者の小さな作業机で見た時とは違う表情をしている。金糸が光りすぎている部分を爪の先で押さえ、無意識に織り目を確かめた。「ここ、実際の客室照明だと少し強く出ます。採用するなら撚りを一段落とした方がいいです」 余計なことを言った。布を戻そうとすると、玲司が同じ箇所へ視線を落とした。「そこまで分かるのに、関係がないと言うのか」「仕事で布を扱っていたことはあります。それだけです」 玲司は何か言いかけ、やめた。私も、それ以上は話さなかった。 七年前、彼の前ではいつも
――話がある。 七年前のあの夜と同じ低い声が、ホテルのスイートルームという非日常の空間に響き渡った。 私の足元から、急速に血の気が引いていく。 なぜ、彼がここに。 高遠玲司。かつて兄の親友であり、私が長年想いを寄せた末に、拒絶された相手。アメリカ人の母親譲りの色素の薄い瞳が、私の姿を真っ直ぐに射抜いている。七年前と変わらない凄みを帯びた高い鼻梁。 しかし、何かが決定的に違う。七年前の夜のような、熱を帯びた焦燥はない。そこにあるのは、獲物を追い詰めた捕食者のような、絶対的な自信と冷酷さだけだった。「……話とは、なんでしょうか」 どうにか絞り出した声は、ひどく上擦っていた。 私は無意識に、手にしたダスターをきつく握りしめる。清掃スタッフのグレーの制服姿で、スリーピースのダークスーツを完璧に着こなした彼と対峙している事実が、圧倒的な力の差として私に重くのしかかる。 逃げ出したい。今すぐこの扉を開けて、彼から遠ざかりたい。 その衝動を必死に押さえ込み、私は一歩も引かずに彼を見据えた。「七年前。なぜ君は、誰にも何も言わずに姿を消した」 静かな問いかけだった。だが、その底には確かな怒りがマグマのように渦巻いているのが感じ取れた。 私は小さく息を吸い込む。 思い出すのは、あの朝の冷たい言葉だ。『昨夜のことは忘れろ。あれは間違いだった』 彼に捨てられ、自分の家族の会社まで危機に追いやられた。お腹には新しい命が宿っていたのに、彼には別の婚約者がいた。 誰にも言えなかったのではない。言えるはずがなかったのだ。「……あなたに、説明する義務はありません」 震えを隠すため、あえて冷たい声で言い放つ。 玲司の眉間がわずかに動いた。「そうか」 短く応じると、彼は窓際からゆっくりと歩み寄り、部屋の中央に置かれた重厚なマホガニーのデスクに近づいた。 そして、その上に置かれていた一冊のファイルを開く。「なら、仕事の話をしよう」 仕事? 清掃スタッフに、高遠グループのCEOが直接仕事の話をするなど、あり得ない。 私の頭の中に疑問符が浮かぶ。「……七年ぶりに、ようやく見つけた」 玲司の低い声が、静かに宣告した。 デスクの上に置かれたファイルには、数枚の布地とデザイン画が挟み込まれていた。 私はそれを見た瞬間、息が止まりそうになった。 それ
ジューッ、という派手な音を立てて、フライパンの上で卵が焼けていく。 換気扇の低い唸り音に混じって、リビングの方からパタパタという軽い足音が近づいてきた。「ママ、おはよー……」 あくびを噛み殺しながらキッチンに顔を出したのは、七歳の娘、朝倉 陽菜(あさくら・ひな)だ。寝相の悪さを証明するように、頭の右半分の髪が鳥の巣のように跳ね上がっている。「おはよう。またすごい寝癖ね」「だって、夢の中で怪獣と戦ってたんだもん。ママ、今日のお弁当、タコさんウインナー入ってる?」「もちろん。足はちゃんと八本にしておいたわよ。さ、顔洗っていらっしゃい」 火を止め、お弁当箱の蓋を閉める。 陽菜は「やったー!」と歓声を上げて洗面所へ駆けていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、ふと、日に透ける明るい茶色の髪に目が留まった。 色素の薄い髪。そして、太陽の光の下で見ると微かに緑がかって見える、あの人と同じガラス玉のような瞳。 娘は明るく愛らしい存在であり、私にとってかけがえのない宝物だった。 この子を産んだことだけは、一度だって後悔したことがない。苦しかった七年間の中で、それだけは誰に何を言われても揺らがない、私自身が選んだ答えだった。 あの九月から、七年と十一か月。陽菜は六月二十日に七歳になった。 母娘二人の暮らしに余裕があるわけではない。それでも懸命に生活してきた。朝倉家にも、高遠側にも、陽菜の存在は知らせていない。 七年前。妊娠を知った私は、本当は家族にその事実を伝えるつもりだった。 だが、その直後、彼の一族によるビジネス上の争いによって、自分の家族が追い詰められていることを知る。父の会社は倒産こそ免れたものの、かつての勢いを失い、厳しい状況に置かれていた。 けれど、あの夜については、今も分からないことが残っている。あの異常な状態が偶然ではなかったのなら、誰が、何のためにあんなことをしたのか――七年経った今も、その答えだけは見つからないままだ。 さらに追い打ちをかけるように、私はSNSで彼の婚約発表を目にした。 相手は、御堂ライフサイエンス創業家の令嬢、御堂莉央。両家の提携を紹介する記事には、玲司の腕にそっと手を添えた彼女の写真が載っていた。白いドレスの莉央は晴れやかに笑い、隣の玲司も口元をわずかに緩めている。 私の知らないところで、こんな顔をしてい
ひどく重い瞼をこすりながら身を起こす。シーツが擦れるだけで、微かな気怠さが全身を包み込み、昨夜の出来事が夢ではなかったことを痛烈に突きつけてくる。 広いベッドには、彼の寝返りの跡と、枕に残された微かなシトラスの香りだけが残っていた。「……帰ったの?」 掠れた自分の声が、静まり返った部屋に落ちる。 サイドテーブルに目をやると、そこに小さな銀色の光があった。 星型のヘアピン。部屋に残されていたのは、彼が置いていったそれだけだった。昨夜、彼が私の髪から外したあのヘアピンだ。 その隣に、ホテルのロゴが入ったメモ用紙が置かれている。『急用ができた。先に出る』 短く、角張った筆跡。それだけだった。 ヘアピンを握りしめながら、昨夜の出来事を思い返す。金属の冷たさが指先に伝わる。「……勝手なんだから」 呟きながら、ふっと小さく笑みがこぼれた。 近いうちに海外へ発つ彼が、最後の夜に自分を選んでくれた。今はそれだけでよかった。数年後、彼が戻ってきた時には、堂々と隣に立てるような女性になっていたい。 そう、決意したばかりだった。◇ 昼前、私はホテルを出て朝倉家へ戻った。車窓を流れる街を眺めても、昨夜の熱と、ベッド脇に残された短いメモが頭から離れなかった。 自室で着替えを済ませ、星型のヘアピンを化粧台へ置こうとした、その時だった。 ――ガシャンッ! 一階の書斎から鋭い破砕音と父の怒鳴り声が響く。私はヘアピンを握ったまま階段を駆け下り、書斎のドアを少しだけ開けた。 中では、父・朝倉 隆臣(あさくら・たかおみ)がデスクの上の書類を床に払い落とし、肩で荒い息をしていた。傍らには、兄の朝倉 直哉(あさくら・なおや)が、青ざめた顔で立ち尽くしている。「……っ、あの若造に……まんまと出し抜かれたというのか!」「父さん、落ち着いてください。朝倉テキスタイルの資金繰りが限界だったのは事実です。彼に融資を頼んだのは俺たちの方で……」「だからといって、高遠のグループがうちのメインバンクと裏で手を組んで、経営権を根こそぎ奪っていくなんて話があるか! 彼がうちに近づいた理由には、最初から別の目的があったんだ!」 言葉を失った。「俺たちは……利用されていた」 兄の絶望的な声が響く。父が言っている意味が、うまく理解できない。その言葉を信じることができない。 利用
大柄な彼の体重を支えきれるはずもなく、私たちはもつれ合うようにして部屋の奥、分厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。 ドスッ、という鈍い衝撃が背中を打つ。「……っ、大丈夫ですか」 声をかけても返事はない。ドレスの生地越しに伝わってくる彼の鼓動が、あまりにも速く、不規則に打っている。 スーツの背中に腕を回すと、高級な布地が彼の汗でぐっしょりと湿り気を帯びていた。 首筋に埋もれるように倒れ込んだ彼の顔から、燃えるような吐息が絶え間なく吹きかかってくる。シトラスの香水と、汗と、微かなアルコール。 やはり、ただの酔いではない。異常な熱だ。「しっかりしてください……っ」 どうにか身体をずらし、彼の頭を絨毯に下ろす。ネクタイを完全に外し、シャツのボタンをいくつか開けて風を通した。 近くにあったキャビネットから清潔なリネンタオルを見つけ出し、洗面台の水で濡らして彼の額の汗を拭う。 苦しげに眉をひそめながら、彼は時折、小さく呻き声を上げた。 その顔を見つめながら、ひたすら冷たいタオルを当て続ける。 一時間。あるいは、もっと経っただろうか。 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。 やがて、火のようだった彼の体温が少しずつ下がり、荒かった呼吸が静かなものへと変わっていく。 不意に、掠れた声が名前を呼んだ。 ハッとして顔を上げると、色素の薄い瞳が、静かに私を見つめ返していた。 先ほどまでの焦点の合わない濁りは消え、受け答えのできる理知的な光が戻っている。少なくとも、さっきまでのように意識が揺らいだ状態ではなさそうだった。「気がつきましたか……? 気分は」「……ああ。最悪だが、頭ははっきりしている」 彼はゆっくりと上体を起こし、乱れたシャツの胸元を片手で押さえた。 そして、私の顔をじっと見つめる。「どうして帰らなかった。……俺がどんな状態だったか、わかっていたはずだ」 その声は低く、自分自身を責めるような響きを帯びていた。「放っておけません。それに……帰りたくなかったから」 素直な言葉が口をついて出た。 彼の瞳が、微かに揺れる。「明日には、ここを発つ。君に触れる資格なんて、俺にはない」 明日にはいなくなる。その言葉に、握りかけた手を一度引いた。今ここで気持ちを告げても、遠くへ行く彼を引き止められるわけではない。